3280188 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

人生朝露

人生朝露

世捨て人の系譜。

えんやこら、

ところがどっこい。
荘子です。

Zhuangzi
『原憲居魯、環堵之室、茨以生草、蓬?不完、桑以為樞而甕?、二室、褐以為塞、上漏下?、匡坐而弦。子貢乘大馬、中紺而表素、軒車不容巷、往見原憲。原憲華冠?履、杖藜而應門。子貢曰「?。先生何病?」原憲應之曰「憲聞之「無財謂之貧,學而不能行謂之病。」今憲、貧也。非病也。』子貢逡巡而有愧色。原憲笑曰「夫希世而行、比周而友、學以為人、教以為己、仁義之慝、輿馬之飾、憲不忍為也。」』(『荘子』 讓王 第二十八)
→原憲は魯の国に居を構えていた。居といっても一丈四方の狭い庵は、屋根を草でふき、戸は蓬を編んでいて、桑の木や割れた茶碗をあてがっただけ。両の部屋を襤褸切れで仕切っているだけの粗末なものだった。上からも下からも水漏れするような家で、原憲は、座して琴を弾いて歌うような生活をしていた。
 同じく孔子の門人である子貢は、紺の布と絹を重ねたいでたちで、立派な馬を引く車に乗って原憲に会いに行った。車が大きすぎて原憲の家にいたる小路に入るのも難儀なほどだった。原憲はぼろの冠と破れた履、アカザの杖を携えて旧友を迎えた。子貢はその姿を見ると「ああ、先輩はひどく病んでおいでです。」と嘆いたが、原憲は「財産の乏しいことを貧といい、学びながらそれを行えないのを病というではないか。今、私は貧乏であっても、病んでいるのではないよ。」と応えた。
 子貢は恥ずかしそうな顔した。しかし、原憲は笑って「他人に認められるために行動し、周囲におもねってばかり者を友としたり、他人に自慢するために学問をしたり、己の欲のために仁義を騙って他人に教えを垂れたり、車を立派にして飾り立てるというのが世の君子のあり方のようだが、私には、到底そういったまねはできないよ。」

・・・『荘子』という書物は、「内篇」「外篇」「雑篇」に分かれていて、「内篇」はほとんどが荘子の手によるものだろうけども、「外篇」「雑篇」は、荘子の弟子たちが書き足した、もしくは荘子に近い人物の文章を付け足して編集されたものであろうとされています。(ま、読めばすぐに分かるんですが。)で、中盤から後半の、「外篇」や「雑篇」では、荘子のエッセンスを守りながらも、弟子たちが新しい荘子学派の形を提示したと思われる箇所が目立つんですよ。雑篇の讓王篇などでは、荘子の弟子が、寓話という形で、立身出世や金儲けに奔走する当時の文人の生活態度を批判をしております。それと同時に、後半には隠遁生活のススメのような記述があるんです。超俗的な荘子の境地までには辿り着けないにせよ、俗世とはある程度の距離を保って生きていくというような、・・荘子のことを世界最古のアナーキストと評することもありますが、完全に人間社会との関係を断ち切る荘子の「無為自然の境地」というのはなかなか難しいわけです。そこで、彼の弟子たちは、人里離れた自然の中で暮らすまではいかなくとも、都会の近郊で、清貧を守りつつ、自適の生活を志向するんです。世間のしがらみを断ち切り、浮世離れした暮らしをしながらも、文明の豊かさもある程度は確保していくという・・「田舎荘子」というより「都荘子」を楽しむといったものですかね。

愚者のカード。 隠者のカード。
タロットカードでいうと、「愚者(The fool)」とまではいかなくとも、「隠者(The hermit)」であろうという位置づけです。晩年のオビ・ワン・ケノービみたいなものですよ(笑)。

日本で言うと、
鴨長明(1155~1126)。
鴨長明(1155~1126)の『方丈記』に、はっきりと見えてきますね。

『こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。いはゞ狩人のひとよの宿をつくり、老いたるかひこのまゆをいとなむがごとし。これを中ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだもおよばず。とかくいふ程に、よはひは年々にかたぶき、すみかはをりをりにせばし。その家のありさまよのつねにも似ず、廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所をおもひ定めざるがゆゑに、地をしめて造らず。土居をくみ、うちおほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へうつさむがためなり。そのあらため造るとき、いくばくのわづらひかある。積むところわづかに二輌なり。車の力をむくゆるほかは、更に他の用途いらず。いま日野山の奧にあとをかくして後、南にかりの日がくしをさし出して、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、うちには西の垣に添へて、阿彌陀の畫像を安置したてまつりて、落日をうけて、眉間のひかりとす。』(鴨長明『方丈記』より)

・・似てますよね。

こういった隠者・世捨て人の傾向は老荘の道を好んだ吉田兼好にもあります。禅宗の人が荘子を引用する場合にも、通常は中盤以降の、外篇や雑篇からの言葉が多いんです。『方丈記』や『徒然草』も『荘子』の中盤や、後半から持ってくるんですよ。

参照:当ブログ ヨーダ(Yoda)と荘子(Zhuangzi)。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5026

こういった老荘の生活を実践したのは、
阮籍(210~263)。
阮籍(げんせき 210~263)がハシリでしょうね。「竹林の七賢」の一人、今から1800年ほど前の三国志の時代の人です。(阮籍については、日本から倭人がやってきた時代背景を織り交ぜた、陳舜臣先生の『『中国畸人伝』がおススメ。)

参照:Wikipedia 阮籍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AE%E7%B1%8D

同 竹林の七賢
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9E%97%E3%81%AE%E4%B8%83%E8%B3%A2

『晋書』阮籍伝によると、

『或いは戸を閉じて書を視、月を累ねて出でず。或いは山水に登臨し、日を経て帰るを忘る。群籍を博覧し、尤も荘老を好む。酒を嗜み、能く嘯き、善く琴を弾す。其の得意に当たるや、忽ち其の形骸を忘る。時の人、多く之を痴と謂う。』

阮籍という人は、とにかく奇行の多い人なんですが、彼の生まれた時代背景から見ると分からないわけでもないんです。後漢の名門の出で、お父さんは建安の七子に数えられる立派な文人。本人もすこぶる優秀で、一見恵まれているようですが、彼自身にとっては、望ましい境遇ではなかったようです。阮籍が生きていた頃は、三国鼎立の乱世から、礼法を重んじる時代への転換期で、陰湿な宮廷闘争や、派閥争いが目立ってきます。また、曹操の子孫から、司馬懿の一族が実権を奪うクーデターが画策されている頃なので、失言一つで、失脚どころか命を狙われる危険もあるほど。しかもその礼法も有力者の都合で変えられるわけで、阮籍は、形骸化して、虚飾にまみれた当時の政治の世界が、いやでいやでしょうがない。

そこで、彼は逃げたんです。無害な愚か者を装って。荘子にある「処世」です。

参照:荘子の処世と、価値のない木。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5028

後に「竹林の七賢」と呼ばれる人たちは、清談という形で儒家とは異なる老荘的なユートピアを語りまして、一種「知識人の憧れ」ともなっていくんですが、反体制的な部分だけでなくて、途中から本気で愚か者であろうとした形跡があるんですよ。まだこの頃は仏教も入ってきて間もないし、道教も体系化してはいません。瞑想の方法もわからないので、酒と詩と音楽にふけっていくわけです。もちろん、これは命がけの逃走であり、反抗なんです。

参照:Youtube GuQin-酒狂
http://www.youtube.com/watch?v=YufEeoWU5Rg

1800年前の阮籍の楽曲です。
途中で「詰まった」ような表現をしているのは「げっぷ」です。

・・・「竹林の七賢」については記録は無いものの、魏晋南北朝の文化人の間には、五散石や麻沸散といった鉱物系の麻薬の服用が流行しておりまして、どちらかというと、今でいうところのタバコの服用に近いんでしょうが一種のステイタスとして、薬物による現実逃避がすでに顕在化しているんです。(日本で言うと卑弥呼の時代なんですがね。)

Hippie。

彼らに似てませんか?

参照:Wikipedia 五石散
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%9F%B3%E6%95%A3

Wikipedia ヒッピー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC

当ブログ 無何有の郷と"Nowhereman”。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5059/


次回に続きます。
今日はこの辺で。


© Rakuten Group, Inc.